部隊の韓国帰国、神様からの祝福
彼の部隊が帰国することになり、帰国までの15日間、兵士たちの心は踊り、喜びに満ちていました。皆は、当時としては非常に高価だったテレビ・録音機などを買って帰国の準備をし、祖国の懐に抱かれることを待っていました。しかし、彼の願いはただ「生きて帰ること」だけだったので、電化製品にはあまり関心がありませんでした。それでも心の片隅では、彼の故郷の山奥で音楽が流れ、テレビの画面が出てくると、人々がみんな驚いて喜ぶだろうな…と思い、一兵士でお金もあまりありませんでしたが、小さな電化製品でも買って帰ろうと考えていました。
しかし、他の兵士たちが、既にわれ先にと電化製品を買いあさっていたため、彼はほとんど買うことができずに途方にくれてしまいました。購入を諦めかけていた時、韓国全軍に帰国にあたっての一つの軍令が下るようになります。それは「功績者(勲章のある者)は多くの品物を持ってよし、功績の少ないものは、品物を限定する」というものでした。これにより軍功がほとんどない兵士たちは、買い損に陥り、買ったものを捨てるか、売るかという事態になりました。彼は兵士として勲章が6つもあったため、彼の元には投げ売り状態の価格で大型電化製品が集まり、多くの製品を格安で購入することができました。このような神様の祝福に、彼は本当に感謝しました。そして韓国に持って帰ってきた電化製品は、結局すべて売り払い、得たお金を彼の故郷ソンマン里に教会を建てる資金として、全額寄付するようになりました。
戦場でも神様を愛し、命を愛した実践信仰
こうして彼は合計3年余り、ベトナム戦争に参戦しましたが、その間、彼は一日も欠かさず神様に祈り、戦場でもいつも聖書を携えて少しでも時間があれば読み、天の声と黙示を記録しました。また彼は神様に約束したとおり、敵を一人も殺さず、いかに生かせるかを考えて神様に祈り求めながら、どんなに悲惨な状況の中でも、戦場で聖書の言葉を実践しました。結果として、参戦中に数十回もの究極的な死の瞬間から、神様に守られて奇跡的に生き延びるようになりました。ベトナム戦争中のそれらの出来事を通して、彼は神様がどんな状況でも必ず共にされ、守ってくださるという堅い信仰をもつようになりました。また、生死を分ける極限の状況でも神様を愛し、命を愛したことは、今後にもつながる彼の「実践信仰」の精神における礎となりました。
上官による本の出版、勲章授与
そのような彼の行いに強く感動した当時の上官は、後に、彼を題材とした『ベトナムの戦場で出会った神様の人』(2010年、タビッ出版社)という本を執筆しています。その本には、このように書かれています。
「原稿を書いてみると、文章の流れがその当時の一兵士に触れているということがわかったが、文章が出てくる通りに書くことにした。(…)まさに私と共に戦い、私と共に呼吸していた知己が、その人生すべてにおいて、そのようにイエス様から教えを受けた思想の延長で神様に仕え、行動してきたということを知った時、筆者はおのずと胸が高鳴った。(…)この文章が出てくるまでに、ずいぶん長い間、書くべきか、書くまいか、何度も深く考えたが、戦場であった一挙手一投足の事々について、一種の実録を筆者がしなくてはならないという義務感のようなものがわずかにではあるが働いて、その上、筆者はカトリック信者ではあるが、砲弾が炸裂し、人が死に、人を殺す残酷な戦闘の現場においてさえ『愛』を見せてくれた鄭明析兵士の行動を、ありのままに世の中に知らせるべき義務が自らに与えられたということを認識したので、恐れ多くも原稿を書き下ろすことができた。」(まえがきより)
「私はカトリックの教会に通いながら、今まで出会ったり聞いた話の中で、目の前にいる鄭明析上兵ほど真実に神様を信じる人を見たことがない。もちろん、昔の預言者たちの中で神様の御言葉を守るべくして殉教した偉大な聖人たちの話はたくさん聞いたが、私と共に戦闘の現場をかいくぐった戦友たちの中でそのような人に会ったということは、奇跡であると言うほかない。」(113頁より)
そして戦後、上官にも認められた彼は作戦での功績が高く評価され、花郎勲章と仁憲勲章を授与されました。
ベトナム戦争終結、故郷に教会建築
1973年、パリ協定によりベトナム戦争の終結を宣言。米軍はベトナムからの撤退を表明し、それに伴って韓国軍も撤退することになります。その後、1975年には北ベトナムが南ベトナムを統一し、現在のベトナム社会主義共和国となりました。
ベトナム戦争から帰ってくると、彼は戦争で得た資金をほぼ全額、故郷ソンマン里の教会建築費用として寄付します。また建築に際し、業者を頼んでしまうと運搬費や材料費が非常に高くなってしまうので、彼と村の信仰をもつ若者数人で教会を建築することになりました。
村の人々からは、「どうして死ぬ思いをして稼いだお金を教会に全部使ってしまうのか」「教会をどうして建てるのか。もったいない。そのお金で自分の家を素敵に建てればいいのに。本当にやることがなければ村の会館でも建てればいいではないか。会館を建てれば、後で村の貢献者として碑を建ててもらえるのに」と罵倒され、愚か者扱いを受けました。しかし、彼はベトナム戦争で、神様にあらゆる場面で助けてもらった感謝の思いと、また多くの人に救いの道をのべ伝えたいという心情で、あらゆる罵倒もものともせず、ひたすら建築作業を進め、素晴らしい教会が完成するようになりました。