日本統治解放の1945年、3月に三男として生まれる
鄭明析(チョン・ミョンソク)牧師は、韓国が日本の統治から開放された1945年、その年の3月16日に忠清南道錦山郡珍山面石幕里タルバッコル(現、月明洞)で、6男1女の三男として生まれました。
生家は極限の貧困状態にありました。市街地から遠く離れたうら寂しい山奥には、近隣の家は4軒しかありませんでした。その中で約150年経った平屋は、外壁が土で覆われ、屋根は藁葺きでした。家の中にはダニや南京虫(トコジラミ)がうじゃうじゃしていて、激しい痒みに毎日のように悩まされました。雨漏り・すきま風も入り込み、冬にはマイナス10度を下回ることもしばしば。厳しい寒さに凍え、何度も死に直面しました。周囲にはまともな土地もなく、農業をしても刈り入れる穀物が少ないため、食料の調達には大変な苦労を強いられました。
出生後、死に至る病を発病
彼は生まれて間もなく、全身が腫れ上がり、やがて死に至るといわれる原因不明の難病にかかってしまいました。当時の医療技術では治療することができず、家族は失意の中、ありとあらゆる薬を使いましたが、効果はありませんでした。それでも必死の看病を続けましたが、日ごとに呼吸が弱まり、ある日の夕方、呼吸が止まり、亡くなったかのように見えました。彼の母や祖母が彼を何度も確認しましたが、やはり呼吸が無かったので、彼の母は白い布をかぶせて、部屋の隅に安置しておきました。
深夜、彼の母は、甕(当時は赤子が亡くなった時、素焼きの甕をお棺の代わりにしていた)に入れて土葬するため、彼を甕に入れて、土葬するために行こうとしました。最後に愛する息子の顔をもう一度見ようと、顔までかぶせておいた白い布をめくって、油皿の明かりに照らして顔を覗いてみると、なんと彼は目をあけて、パチパチと瞬きをしていたのです。
彼の母は大変驚き、「今、この時だけ目を開けてくれたのか」と感激して彼を見ていましたが、まるで「お母さん、私は死にません」と言っているようでした。それで彼の母は急いで部屋の温かい所に移して、「もしかしたら、また死ぬのではないか」と思い、徹夜をして見守っていました。その時、「この子は死なないで助かりそうだ」という予感がしました。
夜明けになり、彼の祖母が起きてきて、「子どもはちゃんと埋めたのか?」と聞いたので、「お母さん、なんと生き返りましたよ!」と話すと彼の祖母も大変驚き、「生命力がある子だね!しかし死んでから生き返ったから、よく見ていなければいけないよ」と言いました。その後も彼の母はご飯を炊きながら見守っていましたが、子どもは手を振ってはっきりした表情で笑っていました。
全身の腫れも三日ほど経つと完全に治まり、その後は何事もなかったかのように元気になって、健康に育ちました。彼の名前を「一度死んで生き返ったから、生命力がある」と、「ミョンソク※」と名付けました。
※「命」も彼の名前の「明」も韓国語では「명:ミョン」で同音文字
朝鮮戦争勃発、貧困・飢餓が深刻化
彼が5歳の時に朝鮮戦争が勃発(1950年6月25日)。避難を余儀なくされ、彼も母の実家へ避難しました。6歳になると、徐々に神様を信じる心が芽生えるようになります。当時周りには、両親も含めて教会に通う人が一人もいませんでした。それにもかかわらず、何かあるといつも神様を呼び求めるようになった姿には、両親も驚きを隠せませんでした。
避難生活が2年過ぎた、1953年7月に休戦を迎えます。戦後の韓国は経済危機に直面して、貧困と飢餓はより一層深刻になり、韓国では約9万人の餓死者が出ました。彼の実家でも日々生きていくのがやっとの生活。水のような薄いお粥が主な食事となり、ヨモギを採ってきては、わずかなお米に入れてヨモギ粥にして、一人一杯ずつ食べるのがやっとのことだったのです。
わずかな食事が底をつくと、何日も飢える日々が続きました。極度の空腹のため、山中を歩きまわり、葛の根や松の枝など食べて死なないものならば何でも口にし、空腹を紛らわせることもたびたびでした。飢え死にしそうな子供たちをみて、彼の母は山菜を採ってきては子供たちに食べさせたり、まともな食糧を手に入れるために12 km離れた錦山(クムサン)方面まで行って山菜を売ったりもしました。
ある日のことです。山菜が一つも売れない日がありました。彼の母は、12㎞の道を戻りながら、ありとあらゆることを考えたといいます。「一日中うちの子たちは、お母さんが食べ物を持って帰ることに期待して待っているだろうに…」手ぶらで帰ることに自然とため息が漏れました。
帰途にあるモッコルという場所には、大きな貯水池があったのですが、その隣を歩いていると、一つの感情が込み上げたのです。「本当に情けない…私の人生がこんなふうに続くのなら、生きている意味がない…いっそ死んだほうがましだ!」そうして自殺の衝動に駆られ、籠を頭に乗せたまま飛び込んだそうです。その時、「お母さん!」という声がかすかに聞こえました。びっくりして我に戻り、「どうせ死ぬならば、最後に子供たちの顔を見て死のう」と思い、池から出て、急いで走って帰りました。
ソンファンダンという場所に来たとき、長男と次男と三男が母を待っていました。その姿をみた母は走って3人の息子を抱き締めて、子供たちを残して自殺しようとしたことを悔い、「今日は何も食べるものを得られなかったの、ごめんね、ごめんね…」と泣きながら、とめどなく涙を流したそうです。